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Schlafes Bruder 眠りの兄弟

ドイツ映画 (1995)

ローベルト・シュナイダー(Robert Schneider)による同名原作(1992)を、自由な発想に基づいた映画したもの。原題の『Schlafes Bruder』の訳は『眠りの兄弟』。この言葉は、主人公のエリアスが、フェルデベルク(Feldberg)の大聖堂で、バッハのカンタータ『われは喜びて十字架を負わん』の第5曲『Komm, o Tod, du Schlafes Bruder(来たれ、おお死よ、眠りの兄弟よ)』を演奏することを求められたことに由来する〔ただし、エリアスは曲を知らなかったので即興で演奏した〕。さらに、「眠りの兄弟」は、ギリシャ神話の眠りの神ヒュプノスの兄、死の神タナトスを示すとされる。従って「眠りの兄弟」=「死神」となる。このことから、先の曲の「来たれ、おお死よ、眠りの兄弟よ」は、「来たれ、おお死よ、死神よ」の婉曲な表現と言える。要は、この小説、及び、映画の真の題名は、曲の前半の「来たれ、おお死よ」に近いものである。天才的なオルガニストとして一瞬の賞賛を浴びたものの、生涯共に生きると信じていたエルスベートを失ったこと大きさを改めて悟り、自分が弾いた曲のように死のうと覚悟する。そして、死が訪れるまで眠るまいと決心する。それが、『眠りの兄弟』という題名の由来だ。原作ではエリアスが誕生してから22歳で死亡するまで、いくつかのステージに分かれて事件が進行するが、映画では、誕生、12歳、22歳の3つに大別し、12歳のエリアスをコンラディン・ブルム(Conradin Blum)が演じている。原作では、5歳の時に数分間トランス状態に置かれた際に、聴覚が研ぎ澄まされて虹彩が黄色に変わる。映画では、これを12歳の最後のシーンに移動させ、谷の奥にある清冷な池に突き出した平滑な巨岩の上に裸で横たわることで「大いなる自然に宿る神」との間でトランス状態に入り、虹彩が黄色に変わる。より、スピリチュアルな展開だ。映画の中間段階での大きな出来事、村の大火は、エリアスが22歳の時、ピーターが、エリアスへの強い愛を捨てようとしない妹エルスベートを焼き殺すために放火するが、原作では大火はエリアスが12歳の時。放火したのは同じピーターだが、理由は異なる。似ているのは、エリアスが、エルスベートを火から救う場面。映画の時代設定は19世紀の初めだが、原作では1803-25年と細かく設定されている。舞台となるのは、オーストリア最西部のフォアアールベルク州(Vorarlberg)にある小さな村。エッシュベルク(Eschberg)となっている。これは、架空の場所。エリアスがフェスティバルで演奏するのはフェルデベルクとなっているが、これも架空の場所で、原作者は同じ州内のフェルトキルヒ(Feldkirch)を想定していた(後期ゴシックの大聖堂がある)。映画の撮影は、チェコのクトナー・ホラ(Kutná Hora)の聖バルボラ教会(Chrám svaté Barbory、世界遺産)で行われた。IMDbは7.1と高評価だが、User Reviewsを見ると10か1の両極端に分かれている。アメリカ的な映画を期待する人には拒絶反応があるようだ。アカデミー賞の外国語映画部門でドイツ代表となったが、ノミネートはされなかった。

19世紀の初頭のオーストリアのチロル山地の寒村で、1人の男児が生まれる。名前はエリアス。私生児で、産みの母からは嫌われ、大きくなるにつれ、他の村の子とは違う雰囲気に、子供たちからも疎外される。生来、音に対しては敏感で、美しいソプラノの声を持っている。そんなエリアスにも1人だけ友達がいた。エリアスと同年輩の少年ピーターで、エリアスのことが好きでたまらない。だから、エリアスが村の教会に忍び込んで、パイプオルガンを弾こうとする時、ふいごを押して助けたりする。そんなエリアスが、ある日、異常な行動に出る。それは、折りしもピーターの妹が産まれる日でもあったが、エリアスは何かに憑かれたように山に向かって歩き出す。そして、谷の奥の池に突き出した平滑な岩の上に裸になって横たわる。エリアスはトランス状態になり、ピーターの妹エルスベートの誕生の瞬間にピークに達する。エリアスの目と耳からは血が流れ、これによってエリアスはあらゆることを感じ、聞くことができるようになる。そして、エルスベートこそ生涯を共にする相手だと堅く信じる。しかし、大人になったエリアスは、信じきっているため、相手も同じだろうと思い込み、強い愛をエルスベートにストレートに打ち明けない。彼女はエリアスが好きだったが、その「はぐらかすような」「音楽を最優先にする」態度に失望し、両親の決めた男と婚前交渉を持ってしまう。村の教会のパイプオルガンを初めて正式に演奏し、その抜群の上手さで村人をびっくりさせている最中、エルスベートの性行為を直感したエリアスは演奏を中断すると、エルスベートの元へ走り「行為」を目にする。絶望して、神を呪ったエリアスは、以後、放心状態となり演奏も止めてしまう。エルスベートは男と正式に結婚するが、エリアスのことが忘れられない。一方、エリアスのことを同性愛的に好きなピーターは、妹エルスベートの「未だ冷めぬ想い」に腹を立て、かつ、エリアスの愛を独占しようと、妹を部屋に閉じ込めて放火する。火は、村中を焼き尽くし、結果的に、村人の大半はエルスベートを含めて村を捨てる。半年以上が経過し、フェルデベルク大聖堂で行われるオルガン演奏の競技会の候補者を捜しに来た音楽監督が偶然エリアスを発見し、その天才的な才能に感銘を受ける。フェルデベルクに招かれたエリアスは、これまでの全生涯を注ぎ込んだ即興演奏で全聴衆を感動させる。そして、帰村する途中、子供時代に異常な経験をした池の岩に行き、眠るまいと決心し、疲労して死亡する。最後まで同行したピーターは嘆き悲しむ。

コンラディン・ブルムは出演時恐らく12歳。これが映画初出演。主人公は感情を表に出さないので、演じやすかったかもしれない。彼は、2年後にTV映画に端役で出ただけで、俳優の道は選ばなかった。


あらすじ

丸坊主の男の子が、中年の産婆を連れ、峠を越えてエッシュベルクの村に向かう(1枚目の写真、この時点での傘は日除け)。男の子は、父に叱られまいと急がせるが、産婆は慣れない山道に息絶え絶えだ。村の外れの山際に1人で暮らしている変人で炭焼きのミシェルの小屋の脇を通る頃には、土砂降りになっている(2枚目の写真)。産婆は、「靴はボロボロ、足は血だらけ」と文句たらたらだ。3枚目の写真は、草むらの向こうに見える村に向かって歩いて2人。左端に教会が見える。全体にぼんやりしているのは、雨のため。
  
  
  

19世紀初頭の山村なので、村内の道はぬかるんでドロドロ。ようやく産婦のいる家に着く。イライラしながら待っていた父が産婆を見て飛び出してくる(1枚目の写真)。「ああ 来てくれた。神よ感謝します」。そして、ここまで産婆を案内してきた息子の頭を、遅いぞ、といった感じで叩く。「2階に上がってくれ」。しかし、産婆は屋根の下に入ると、一歩も動かず手の平を差し出し、「10 グルデン、あんたの寄こした最悪の伴人に」と要求する〔およその換算で約5万円〕。父が払うと、「あたしの傷付いた足に30クロイツァー」と、さらに要求〔30クロイツァーは半グルデン、つまり約5千円〕。父は、苦労して産婆をここまで連れて来た息子を、「お前のせいで、母さんは苦しんだんだぞ!」と叱って突き飛ばす。「閉じ込めないで!」。「お前がぐずぐずするからだ!」。2階では、産婆が自分の「産婆らしい優しい手」を自慢しているうちに、突如 分娩が始める。結局、産婆がしたことは へその緒を切ったくらい。その上、産婆が「容態を見ずに自慢話をしていた」せいで、産まれてきた赤ん坊は仮死状態に。「こら、今すぐ死ぬんじゃないよ! マリア様のお志があるんだ! 心臓よ動いておくれ。頼むよ!」。産婆は赤ん坊を逆さまに吊るし持ったまま、「ほら、生きるんだ!」と祈るばかり。それが効いたのか、生命力の方が上回ったのか、赤ん坊が泣き始める(2枚目の写真)〔その際の異様に大きな泣き声で、母はその子が大嫌いになった〕。次のシーンでは、村の教会で命名と洗礼が行われている。「ヨーゼフ・アルダー、子を何と名付ける?」。「ヨハネス・エリアスです」。そして洗礼の儀式が始まる(3枚目の写真)。母の不機嫌そうな顔が印象的。赤ん坊のエリアスは大きな声で泣き始めるが、パイプオルガンが演奏されると急に泣き止んで、満足そうな声を出す〔エリアスの音楽好きを示す最初のサイン〕
  
  
  

12歳になったエリアスの最初のシーンは、雪に埋もれたエッシュベルクの村の俯瞰撮影(1枚目の写真)。こんな小さな村なので、近親交配が普通に行われている。そして、ほとんどの子は坊主頭だ。以前、産婆を案内してきてエリアスの誕生に貢献した兄は死んで もういない。エリアスは大人のように髪を伸ばし、着るものも他の子供のように粗末な服ではない。原作では、助祭の私生児で、母に嫌われ、最初の数年は部屋に閉じ込められていたとある。エリアスが粗末なテーブルの上のゴキブリを前に小さな角笛を吹いていると(2枚目の写真)、いきなり窓ガラスが破れ、石を仕込んだ雪玉が飛び込んでくる。「窓のとこに来い!」という声が聞こえる。そして、別の窓が破れる。「エリアス、お前が司祭のクラットさんの子だって ほんとか? どうやって抱いた? 後ろからか?」「ああ、後ろからさ」「母ちゃん、娼婦みたい、あそこに毛がないってほんとか?」(3枚目の写真、矢印は、1人だけ悪戯に参加せず見守っている友達のピーター)。怒った母が箒を手にして飛び出してきて、「地獄で焼かれて、指から肉が落ちるといい! 消え失せろ!」と怒鳴る。
  
  
  

エリアスはベッドに座り込むと、涙を流す(1枚目の写真)。そこに、ドアのロック(木の棒)を外す音が聞こえる〔部屋に閉じ込められている〕。エリアスは慌てて涙を拭って、無理に笑顔を作る。母は食事の椀を持ってきた。エリアスが母の腕に触ろうとすると、母はさっと身を引き、「触るんじゃない!」(2枚目の写真)。さらに、「胸が悪くなる!」と叱る(3枚目の写真)。そして、ドアを一旦閉めた後、ドアを再び開けると、一言、「お食べ」。母は、エリアスを徹底的に嫌っていることがよく分かる。
  
  
  

夜、エリアスのソプラノが周辺の山に響き渡る(1枚目の写真)。母の機嫌がまた悪くなる。隣で寝ているふりをしている夫の脇で、「ゼフ、聴こえてるでしょ? 眠ってないわよね。あの子、正気じゃないわ」(2枚目の写真)。「歌ってるからか?」。3枚目の写真は、ベッドに横になって歌うエリアス。母:「産んだ時に そう感じたの。あの子に見られるとゾッとする」。「誰に見られてもそうじゃないんか?」。「悪魔の子は 冷たいと言うわ。ずうずうしいとこなんか、司祭そっくり」。「黙らんか。お前の罪業があの子を作ったんだぞ! それでも、俺たちの子なんだ! いい加減、閉じ込めるのはやめろ!」。それにしても、自分で不倫をして作っておきながら、何という冷たい母親だろう。それを知っていながら受け入れている父親の方が、よほど寛大だ。
  
  
  

村の小学校。教師がボロボロのオルガンに向かって演奏し、子供たちがバッハの『いざ来ませ、異邦人の救い主』を歌い始める()。しかし、エリアスの声が演奏と合っていない。教師が不審に思って演奏をやめても、エリアスは1人で歌い続けるが、とてもきれいなソプラノだ。教師は、鋭く、「やめろ!」と命じる。そして、「どうしたんだ?」とエリアスに訊く。「先生が鍵盤を押すたびに心が痛むんです」(1枚目の写真)。教師は立ち上がると、エリアスに寄って行き、「『痛い』と言ったな?」と言うと、耳をつかんで片隅に連れて行き(2枚目の写真)、木の棒を首に突きつけ、「謙虚さなく歌い、音楽の前で尊敬を示さん。さらに『痛い』と言った」(3枚目の写真)となじる。そして、「お前に侮辱される謂(いわ)れはない! この人でなし 化け物!」と言いながら、木の棒で何度も叩く。そして、オルガンの上に倒れて音がやまないのを見て、「私の楽器に何をする! 手をどけろ!」と怒鳴って引き剥がすと、「この、悪魔め!」と叫びながら、生徒が慄くほど棒でめった打ちにする。事態に気付いた教師の妻が飛んできて、「やめなさい! 死んじゃうわ!」と止めに入る。「エリアス、大丈夫?」。額が切れて血が出ている。 私はキリスト教徒ではないので、この村の教会がカトリックなのか福音主義ルター派なのか分からない。エリアスが歌う曲は、『いざ来ませ、異邦人の救い主〔Nun komm, der Heiden Heiland〕』。マルティン・ルターが1524年にラテン語聖歌をドイツ語に翻訳しコラールとしたものだ。その第1節と第5節を歌っている。この同名曲は1714年にJ.S.バッハが教会カンタータとして作曲した(BWV 61)。しかし、その中に含まれるのはルターの第1節のみ(BWV 61の「1.序曲」)。ルターの第5節は、バッハの別の曲『喜びて舞いあがれ〔Schwingt freudig euch empor〕』(BWV 36)の「8.コラール」に使われている。このことから、エリアスが別の曲を続けて歌うことはないと考え、ルターの歌詞を学校で歌うのなら、学校の教師=パイプオルガンの奏者なので、教会もルター派だと推測した。しかし、オーストリア帝国のハプスブルグ家はカトリック。次節で、教会の神父が「私が、フェルデベルクのPrälat(高位聖職者)になれたことは知らんだろ?」と言うシーンがある。高位聖職者と言う単語から宗派は不明だが、フェルデベルク大聖堂はカトリック。というのは、ずっと後の節で、フェルデベルクのErzbischöfliche(大司教)という表現があり、これは明らかにカトリックだ。よって、歌に矛盾はあるが、エッシュベルクの教会はカトリックとみなし、役職名もそれで統一した】。
  
  
  

夕方、エリアスは雪の中を教会に登って行く。教会では司祭が、マリア像のそばのロウソクを消そうと、手に唾をつけて触ると、火傷しそうになる。「何てこった、いまいましい!」と言うと、司祭はマリア像を見て、「私を笑ってるのか? マリアよ。もっと笑うがいい。にやりとな。その、ぞっとする顔で」と平然と言う。その時、教会に忍び込んだエリアスが入口を横切るのが見える(1枚目の写真、矢印)。「こんなうらびれたエッシュベルクで何をしてるかだと? おい、私が、フェルデベルクの高位聖職者になれたことは知らんだろ? 知るまいて。あんたは何も知らんからな」。司祭にあるまじき発言だが、エリアスの母を孕ませたような男だから、あり得るのかも。エリアスは、カーテンの裏に隠れて司祭の出て行くのを見ている(2枚目の写真、鼻水が出ているが、寒いので当然。しかし、絶対に変なのは、日中に叩かれた額の傷がどこにもない!)。司祭は教会を出て行くので(3枚目の写真)、住み込みでないことが分かる。だから、この後でエリアスがパイプオルガンを弾いても 気付かれない。
  
  
  

エリアスがパイプオルガンのある2階に上がって行くと、そこにはピーターが待っていた。ピーターは、エリアスと5日違いで生まれた隣の子で、ピーターはエリアスが大好きだ。ピーターが、「ぼくがふいごを押すよ。でないと、音が出ないだろ」と言うと、エリアスはにっこり笑う(1枚目の写真、ここでは、額の傷がはっきり見える→眉まで血が流れた跡がついている)。それを見て、ピーターも嬉しそうに笑う(2枚目の写真)。帽子で分からないが、ピーターは普通の子と同じように丸坊主だ。エリアスは、オルガンの前に座ると、かじかんだ手を暖め(3枚目の写真)、鍵盤に手を置く。「おい、弾けよ。空気が抜けちまう」。エリアスは鍵盤を1つ押し、その音色にうっとりと耳を傾ける(4枚目の写真、鼻水が…)。
  
  
  
  

季節は夏〔遠くのチロル・アルプスに雪がほとんど残っていない〕。ピーターの家では、お産が始まっている。この結果、ピーターの妹、エリアスの将来を決定付けることになるエルスベートが産まれることになる。エリアスは、服をきちんと着て、オールバックの頭髪で家を出て行く。坊主頭の子供たちが、汚いなりをして、道に溜まった泥水で遊んでいる。「エリアスが来た! 悪魔の子だ!」。エリアスは、振り向きもせずに通り過ぎ(1枚目の写真)、お産の行われている部屋を見上げる(2枚目の写真)。そして、慌てたように走り出す〔分娩が近いのを感じた〕。エリアスが窓の外を走って行くのを見たピーターは、家を出て追って行こうとするが、父親に止められる。「行かせてよ、父ちゃん。エリアスと行くんだ!」。「何度言わせるんだ! あいつには近づくな!」。ピーターは、「ばかたれ〔Hundsfott〕!」と、父を罵る。「何だと?」。「ばかたれだ!」。かんかんに怒った父は、落ちていた棒切れを拾うと、振り上げて思い切りピーターを殴る(3枚目の写真、矢印は棒切れ)。痛さに叫び、父を睨み据えるピーターを見て、父は家に入って行く。ピーターは打たれた腕を抱えながらエリアスの後を追う。
  
  
  

エリアスは、ミシェルの小屋の前を通り、脇目もふらずに真っ直ぐ山に向かう。かなり登ってから、エリアスは渓流を渡る(1枚目の写真、ついでながら、夏のシーンはすべて裸足)。しばらくして、後を追って来たピーターも渓流を渡る(2枚目の写真、矢印)。エリアスは、丘の上から、下にある池と、そこに張り出した岩を見おろす(3枚目の写真)。最初から、そこに行くことが目的だと知っていたかのように。
  
  
  

エリアスは、そのまま降りていくと、岩の手前で立ち止まり(1枚目の写真)、そこで、着ている物をすべて脱ぐ(2枚目の写真)。これは、一種の「禊(みそぎ)」の儀式なのだ。エリアスは平らな岩の上に乗ると、体を横たえる(3枚目の写真)。それを、ピーターが遠くから見ている。
  
  
  

カメラは、俯瞰した映像(1枚目の写真)に続き、クレーン撮影でエリアスの背後から接近し(2枚目の写真)、水に写った空と雲を映す。次の瞬間、空が赤く染まり、別の角度からとらえたエリアスが岩の上でひきつけるように震える(3枚目の写真)。
  
  
  

エリアスの耳が拡大して映り、聴覚が影響を受けていることを示唆する。そして、再び静寂な水面。エリアスの顔は汗にまみれている。ひきつけが激しくなる。一種のトランス状態だ。一瞬、水面に落ちた葉の波紋の下にエリアスがいるような映像が挿入される(1枚目の写真)。これは、エリアスと自然との合体を意味するものなのか? 新たな水滴が落ち、今度はエリアスが叫び〔耳が敏感になってきている〕、山々に響き渡る。空と太陽、そして アルプス… 痙攣は激しくなり、空を雲が走る〔エリアスには雲の音も聞こえている〕。完全なトランス状態だ。そして、もう一度エリアスが叫び(2枚目の写真)、再び山が赤く染まる。その瞬間、エルスベートが誕生する。しばらくして、ピーターの家で、赤ん坊を抱えた女中〔ピーターの家は女中が雇えるほどの村一番の金持ち〕が「名前はエルスベートです。抱いて下さいな」と言いながら父親に渡そうとする映像が映る(3枚目の写真)。
  
  
  

エリアスの目からは、喜びが血の涙となって流れ落ちる(1枚目の写真)。耳からも血が流れ落ちる〔聴覚が研ぎ澄まされた〕。オルガンの音が響き渡り、エリアスの目が青緑色から金茶色に変わる(2・3枚目の写真)。原作では、この変化は、エリアス5歳の時に起こる〔体つきも変わり「大人子供」になる〕。映画では、それを12歳のエリアスから22歳のエリアスにバトンタッチする区切りとして利用する。「大人子供」の映像化は難しいし、映画のように12歳を区切りにした方が分かりやすい。ただし、トランス状態で何が起きたかについて、映画では一切説明がないので分かりにくい。
  
  
  

22歳になったエリアス。決定的に変なのはエルスベートの年齢。原作ではエリアスが5歳の時に生まれているので、この時点で17歳。エリアスが恋をしてもおかしくはない。しかし、映画では12歳の時に生まれているので10歳のはずだ。映画では、2人を演じている俳優はともに27歳なので、どう見ても22歳と10歳には見えない。映画では年齢不詳なので、ひょっとして、大人のエリアスは30歳で、エルスベートは18歳なのかもしれない。まあ、誰も気にしないかもしれないが、一応言及しておく。さて、エリアスは、牛小屋の中で、弟で、知的障害を持つフィリップに向かって、エルスベートの「音色」を金属パイプの笛で表現する。「話しながら息をすると声が低くなり、こんな音になる」(1枚目の写真)「笑うとこうなる」「怒って顔が真っ赤になると…」。こうした挿話で、エリアスはエルスベートが好きなこと、音に対して非常に敏感なことが分かる。12歳の「あの日」、エリアスはエルスベートを結婚相手として得、高度な聴覚も得たが、それが同時に表現されている。その日は日曜の礼拝の日で、村人はこぞって教会に向かう。その時、エリアスの母が依然として息子を毛嫌いしていることが分かる。教会では、昔エリアスをひどく叩いた教師がパイプオルガンを弾き、エリアスがふいごを押す係となっている(2枚目の写真)。教師の演奏は、ミスタッチが多く、ピーターの父は、隣の席のルーカスに向かって、「朝から もう飲んでるのか?」と話しかける。ルーカスは、エルスベートの婚約者で、格上のピーターの家族と一緒にいる。そこに、司祭が登場。以前の写真と比べ、髪は白くなり、相当老けて見える(3枚目の写真)。老けたのは体だけではない。会衆から、「ミサが始まってもないのに、もう祝福だ」「司教様に言わんと」という声が出るほどボケている。日曜礼拝が終わり、外に出たエルスベートが、ルーカスに祈祷書を忘れてきたと言って、教会に戻る。お目当ては、エリアスに会うこと。エルスベートはルーカスなんか嫌いで、エリアスが好きなのだ。妹のことが心配になって見に来たピーターが姿を見せると、エルスベートは慌てて出て行く。ピーターのエリアスに対する「愛情」はプラトニックなホモ愛、だから妹に嫉妬し、できるだけエリアスに近づけないようにしている。不幸な三角関係だ。
  
  
  

ピーターは、エリアスと2人だけになると、「パイプオルガンはどうなってる?」と訊く。「シナノキがなくなった。骨膠〔骨から作られたニカワ〕も」。「どのくらい要るんだ?」。「厚板が12枚」。「長さは?」。「16フィート〔4.88m〕」。エリアスは、傷んだ教会のパイプオルガンを自主的に修理しているが、材料がないので中断している。ピーターは、妹のこととなると目くじらを立てるが、その他の点ではエリアスの願いを叶えようと献身的に尽している。もう少し後のシーンだが、音符を知らないエリアスが自分の頭の中の音を書きとめようとする場面では、ピーターがエリアスの手に、自分の手を重ねている(1枚目の写真、矢印)。そして、エリアスが「何とか書こうとするんだが、できないんだ」と言うと、手をエリアスの首にかけて愛しげに触る。ピーターのホモ愛が一番表現された場面だ。一方、村の酒場では、教師が、「いつも間違った鍵盤を押してるじゃないか」と指摘された上、「なぜ、エリアスにオルガンを任せない?」の言葉にムットして、酒場を出て行く。さて、エルスベートと母の間では、次のような会話の交わされる。エルスベート:「女は2人の同時に男を愛してはいけないの?」。母:「娼婦になりたいならね」。「私の言ってるのは、心でよ」。「お前にはルーカスがいる。もう決まったことよ」。エルスベートは崖っぷちに立たされている。エルスベートは、何とかしようと、エリアスに、翌日のフェルデベルクの市に買い物に同行してくれるよう誘う。荷馬車で出かける2人。エルスベートにとっては、残された唯一のチャンスだ。エリアスの愛を確信できれば、何と非難されても、ルーカスを断ろう… 恐らく そう思ったに違いない。エルスベートは、途中で馬車を止め、用を足してくるといって草むら行くが、これとて大胆な誘いの一環だ。「滝みたいだった。せいせいしたわ」。しかし、エリアスは何も言わない。「あなた、いつも静かね」。「静か? 僕は自分の心に話しかけてるんだ」。「心の中を見てみたいわ」。「何が見えるかな?」。「さあ… 見えないもの」。こう言うと、エルスベートは目を閉じ、キスを迫るように、エリアスに顔を寄せていく。しかし、エリアスは顔を後ろにそらせ、2人の距離は縮まらない(2枚目の写真)。エリアスは、エルスベートの想いを無視するように、「君に見せたいものがある」と言い、かつての「岩」に連れて行く。「これは、他の岩とは違う。石目がなくて牛乳のように滑らかなんだ。そして、生きている〔Er lebt〕」。さらに、「神が星の上を通り過ぎる時、この上を通った」(3枚目の写真)「この岩は、圧倒されるような神の足跡なんだ〔Der Stein ist der Abdruck seines übermächtigen Fußes〕」と熱弁をふるう。「この場所から、天国に昇ることもできると信じてる」。しかし、エルスベートが待っていたのは、こんな「憑かれたような」言葉ではなかった。「あなたって、すごく特別で、すごく変わってる。あなたといると、如何に孤独かって感じさdせられる」。そして、「もう行きましょ」。あきらめの言葉だ。
  
  
  

次の重要なシーンは、その日の夜、エリアスとピーターが、教会のパイプオルガンを修理しながら交わす言葉。ピーターは、「今日一日、どこにいた?」と、知っていて訊く。エリアスは作業に没頭している。「フェルデベルクに行ったろ?」。エリアスはふいごを押すよう頼む。そして、炭焼きのミシェルから聞いたと言って、「空の鳥と海の魚は鼓動で感じ合う。長く別れていても、お互いが分かるんだ。男は、次々に恋人を変えていき、神が永久(とわ)に与え賜うた唯一の女性に気付かない。その女(ひと)は、同じ鼓動、音色、感触を持っているのに」と抽象的な表現で話す(1枚目の写真)。ピーターは、「なぜ それがエルスベートだと分かる?」とストレートに質問する。エリアスは答えない。というのも、この時、修理が完成したからだ。鍵盤を押すと妙(たえ)なる音が聞えてくる。「これで魂と声を取り戻せた。このオルガンに命名しよう。君の名はエルスベートだ」(2枚目の写真)。この言葉にピーターは危機感を募らせる。翌日、ピーターはルーカスに会いに行き、最初の雪が降る前に結婚の話を父に申し出るよう迫る(3枚目の写真)。その時、教師が自殺したとの話が村中に広まる。前の夜、直ったオルガンを弾いてみて、自分の限界を知り、首を吊って自殺したのだ。教師の後(教師+パイプオルガン)は、エリアスが務めることになる。
  
  
  

その後、エリアスがオルガンの練習や、子供たちへの音楽教育に熱心に取り組む様子が映される。エリアスには、「神の決めた唯一の人」という確信があるので、エルスベートが、「彼が本当に愛してるのは音楽だけよ」と言われて泣いていることなど知る由もない(1枚目の写真)。エルスベートは、最後の「可能性」を打診すべく、エリアスがいる学校を訪れる。エルスベートが入って行ってきても、エリアスも何も言わない。「驚かないの?」。「足音を知ってる」。「振り向きもしないのね?」。そう言われて、ようやくエルスベートの顔を見る。「何も言うことはないの?」。「明日は日曜だ。ようやく演奏できる」。「言うのはそれだけ?」。「僕たちだけの音楽を作るんだ」。「それだけ? その呪われたオルガンを演奏したいだけなの? あなたって、一体何なの? こんな音楽、神の役にも世界の役にも立たないじゃない! みんなタコの出来た手で額に汗して働いてるのに!」。「理解できないな」。「あなたには何も理解できないのよ!」。「僕に、何を期待してる?」。「私はあなたに愛して欲しいの〔Ich will, dass du mich lieb hast〕。もう我慢できないわ!」。それでも、エリアスが何も言わないので、エルスベートは逃げるように出て行く。エリアスは後を追おうともしない〔信じ難い〕。エルスベートは、その足でルーカスの家に行き、「明日、みんなが教会に行ったら、ここに来るわ」と言い残して去る。そして、翌 日曜日、司祭が入ってくると、エリアスが演奏を始める。その深い音色に、村人は思わずエリアスのいる2階を見上げる(2枚目の写真)。音楽は、宗教的なものから、エリアスの感性を表現した曲に変わる。幸せな調子で始まった曲は、ルーカスの家でエルスベートが服を脱ぎ始めると、それを感じ取って次第に厳しく激しいものに変容していく。「強く抱いて、ルーカス、あんたの強い腕で」。そして2人は合体する(3枚目の写真)。演奏は、狂気を感じさせるほど高速で過激なものとなり、今まで嫌ってきた母が、「あれは、私の息子よ!」と自慢するほど全員が圧倒される。しかし、エリアスは、エルスベートのことが気になり、演奏を続けられなくなる。何事かと村人が見つめる中、エリアスは突如席を立つと、階段を降り、褒め称える村人を掻き分け、教会から走り去る。
  
  
  

エリアスは村中を捜し、ルーカスの家の納屋で激しく肉体を重ね合う2人を自分の目で見て、人生が狂う。そして、空と山を睨んで呪いの言葉を振り撒く。「なぜ、あなたは僕を造った? なぜ、僕の苦悩をほくそ笑む? 僕は、エルスベートを愛するのを止めないぞ!」(1枚目の写真)「神の意志にも逆らうぞ! 今後は、あなたの力は、もう僕には及ばない。もし、僕が破滅するとしたら、それは僕の意思であって、あなたのではない!」〔かなり、勝手な言い分だと思うが…〕。そして、炭焼きミシェルの家を訪れる。「僕の持ってる物を全部やるから、エルスベートを連れ戻してくれ! 彼女は僕と同じ鼓動なんだ。彼女を愛してる!」。「真に愛したことなどない」。「僕は、ずっと愛してる。彼女は僕の人生だ」。「お前には誰も愛せん。世界一孤独な男だからな」(2枚目の写真)「お前が女を愛するのは、考えてる間だけだ。夜、目を閉じりゃ誓いなどすべて忘れちまう。愛する者なら眠らない〔Wer liebt, schläft nicht〕」。原作では、伝道師が言うことになっている。絶望したエリアスは自分の部屋に閉じ籠もる。ドアの外から、ピーターが、一緒に外国の都会に行って演奏して有名になろうと呼びかけるが、エリアスは、「僕は、ここが嫌いだ、エッシュベルクが嫌いだ」と言うだけ。教会での演奏も止めてしまった。
  
  
  

クリスマスの礼拝の時もエリアスはオルガンを弾かなかった。そして、エルスベートは病欠。兄のピーターが様子を見に行くと、「エリアスは どうだった?」と尋ねられる。「エリアスに何を期待してる? 熱があったんじゃないのか?」と正す兄に、エルスベートは「彼に笑われても構わないわ。愛してるの! みんなに知って欲しい」と言い出す。「何を?」。「エリアスを愛してるって」。「お前は娼婦か!」。そして、エリアスに会いに行こうとするエルスベートに、「どこにも行くな!」と命じ、ドアを外からロックする。その後、エルスベートはお腹を触るが、これは赤ちゃんが出来たことを意味するのであろう。一方、ピーターは1階に降りて行くと、ボロ布に灯油をかけて火を点ける(1枚目の写真)。不貞な妹を焼き殺すつもりだ。一方、教会では、エリアスがエルスベートの危機を感じ取る。そして、「火事だ」と叫び、エルスベートを助けに行く。木の家が隣接しているので、火はあっという間に村中に燃え拡がった。一番危険だったのは、火元のすぐそばのエルスベートだったが、エリアスが何とか間に合って無事に救い出す。村中が火の海だ(2枚目の写真)。CGでなく実写なので迫力がある。ピーターは高台から火事を見ている(3枚目の写真)。そして、「この売女(ばいた)! 誰にもエリアスは渡さないぞ〔Niemand nimmt mir den Elias weg〕!」と叫ぶ。因みに、原作では、ピーターが放火するのは、エリアスがまだ12歳の時。映画の方が、放火の理由が明快で、その後の集団離村とも結びつき、まとまりがいい。
  
  
  

画面は翌朝に変わる。残っているのは、黒く燃えた太い骨組みのみ(1枚目の写真)。所々 火がくすぶっている中を、僅かばかりの荷物を持った村人が教会へと向かう。厳冬期なので、焼け出されたら他に行き場がない。教会の中は人で溢れている。中で焚き火をして暖をとっている。エリアスは、公然と、エルスベートを抱いて付き添っている。エリアスは、もっと前に言っていればいいこと、すなわち、①自分は変わる、②父の農場を受け継ぎ、貧しくともそこで自ら働くと言い、さらに、そんな生活で、「小麦粉は糸を引き、パンは石のように堅く、僕らは空腹で…」まで言ったところで、エルスベートが耐え切れずに逃げ出す。ルーカスの子を宿ってしまった今となっては、すべてが絵空事に過ぎない。数日後(?)、大半の村人が見切りをつけてフェルデベルクに避難する用意をしている。一番金持ちのピーターの父が、食べ物を分ける、再建のための木材もタダで提供すると言っても、誰も耳を貸さない。それは、義理の息子となったルーカスも同じだ。雪の中、住む場所がないというのが決定的な理由だ。ボケたりとはいえ、司祭まで村を離れてしまうというのは大きな打撃だ。残るつもりのエリアスは、エルスベートに向かって、「なぜだ?」と訊く(2枚目の写真)。「訊かないで。仕方ないの」。村人は、一列となって村を離れていく(3枚目の写真、右端に教会)。
  
  
  

それから半年以上が経ったある日、赤茶の立派な服を着た紳士を乗せた馬車が村に入って来る(1枚目の写真)。家々は焼け焦げたままで、復興は全く行われていない。馬車に乗っているのは、フェルデベルクの聖歌隊指揮者、オルガン奏者にして音楽監督を務めるFriedrich Fürchtegott Gollerなる人物。オーストリア・ハンガリー帝国の指示で、帝国内のパイプオルガンを登録している。ゴラーは教会に登って行く。教会の中は、村に残った数少ない人々の「家」となり、中では山羊、羊、それに鶏も飼われていて、教会の面影は全くない。風呂などないので、臭いもすごいと思う。恐る恐る中に入って行ったゴラー。壁際にはエリアスが無気力にもたれかかっている(2枚目の写真、矢印)。2階に上がって演奏を始めたゴラー。その音で事態を察したピーターはエリアスのところに来ると、「演奏を見せてやれよ」と勧める。久し振りに聞く音に魅せられたエリアスは、その気になって2階に行くと、楽しんで弾き始める(3枚目の写真)。そのあまりの見事さに、ゴラーは感銘を受ける。彼は、奇跡だとまで言い、父親に、「あなたの息子さんは天才です」と言ってフェルデベルクに来るよう勧める。父が拒否すると、「不利益にはなりませんよ」とお金を見せ、さっそく母がそれを取り上げ、「ぜひとも」。いかにも、この母親らしい。
  
  
  

フェルデベルクの大聖堂では、帝国内の名オルガン奏者のコンペティションが開かれようとしている。大聖堂の正面にある台の上から役人が市民に向かって呼びかける(1枚目の写真、入口のアーチの上の方に白い点が2つ見える。その間にいるのが役人)。「フェルデベルクの市民に伝える。大聖堂の大司教代理組織は、オルガンの即興演奏の年次競技会を、本大聖堂のパイプオルガンを使用して実施する」「大司教代理組織は、人里離れたエッシュベルクの村から来たヨハネス・エリアス・アルダーなる男、誰からも演奏を習ったことがない稀にみる天才が、トッカータとプレリュードを演奏することを申し添える」。この布告を 赤ん坊を抱いたエルスベートも聞いている。避難してきた村人は、市内の一角に「掘っ立て小屋とホームレスの中間」程度の居住場所を作り、何とか生きている。しかし、中に、死にそうな男が一人いる。エルスベートの夫ルーカスだ。大聖堂の鐘が鳴り、人々が一斉に中に入り始める(2枚目の写真)〔大聖堂には1000人以上入ることができる〕。入口では一人10クロイツァー〔約1500円〕の入場料をとっている。エルスベートは中に入りたいのだが、そんなお金はない〔すべてルーカスの薬代〕。そこで、入口に来た紳士にお願いしてお金を払ってもらう。大聖堂の身廊〔アーチで支えられた中央の大空間〕の真ん中に延びる通路には5列のロウソクが並び、翼廊と交差して十字架の形になっている。エルスベートは、その脇を通って、立ち見席に行く。そして、いよいよヨハネスの弾く順番となる。演奏曲目は『来たれ、おお死よ、眠りの兄弟よ〔Komm, o Tod, du Schlafes Bruder〕)』だと告げられる。エリアスは、「僕は、この賛美歌の旋律を知りません」と困惑。ゴラーは、「じゃあ、何でもいい。とにかく弾いてくれ」とイスに座らせる。ピーターの、「君は、この場の支配者じゃないか」の言葉もあって、エリアスは演奏を始める(3枚目の写真、矢印、右端にピーター、共に よれよれの普段着姿)。
  
  
  

エリアスの演奏は、いきなり常識を遥かに超えたスピードで始まる。その過激な演奏に席を立つ人や、「冒涜よ!」と文句を言う女性もいたが、高速で連打されるような演奏の行き着いた先は、圧倒的で気高いまでの音色。霊的な神聖すら感じられる。エリアスは万感の思いを込めて演奏する。それは聴衆を完全に魅了し、天上にいるかのような感動を抱かせる。どこまでも昇りつめていく曲に、風が吹き込み、「空が開いたわ!」と誰かが叫び、床に敷かれたロウソクが吹き消されていく(1枚目の写真)。どこまで現実で、どこまでが幻覚かは分からないが、神がかりさを感じさせる見事な演出だ。そして、演奏が終わる【映画のこのシーンは、https://www.youtube.com/watch?v=zXrz9u6P1h4 で見て聞くことができます】。誰も何も言わない。しかし、全員が立ち上がる。真っ先に、コンペティションの対抗者が脱帽して拍手を始める。女性の「奇跡よ!」の声をきっかけに、全員が帽子を振り上げて拍手喝采する(2枚目の写真)。ゴラーはエリアスを聴衆から見える場所に連れて行く。そこで巻き起こったフィーバーは、聖堂内ではあってはならないような、現代のロック歌手のコンサート会場のような熱狂ぶりだった。教会関係者が静まるように叫んでも収まる兆しがないので、正門を開けさせる。ゴラーはエリアスとピーターを伴い、熱狂する群集を掻き分けて馬車へと向かう。エルスベートは何とかエリアスに会おうとするが、群衆に阻まれて近づくことができない。正門に近づいたエリアスは、エルスベートの呼びかけに気付いて振り返る(3枚目の写真、矢印)。しかし、群集に押される形で外に出ると、馬車に押し込まれ、そのまま、エルスベートに会うことなくフェルデベルクを去る。
  
  
  

山道を歩いてエッシュベルクに向かうエリアスとピーター。なぜ、馬車で村まで送ってもらえかったのかは分からない。途中まで来て、エリアスが立ち止まり、村とは違う方に登って行こうとする。「どこに行く?」。「家に戻りたい」。「村はこっちだ」。「エッシュベルクじゃない」〔これらの会話から、2人が他所から村に向かっていたことが分かる〕。放っておけないので、ピーターも一緒に付いて行く。エリアスは、「僕は、もう眠らない〔Ich werde nicht mehr schlafen〕」と言う。「なぜ、そんなことをする?」。2人がいるのは、かつてエリアスが「開眼」した平らな岩の上だ(2枚目の写真)。返事はない。ピーターは眠るがエリアスは起きている。体力は弱り、遂にはピーターが呼びかけても反応がなくなる。エリアスの最後の言葉は、「お願いだ。一緒にいてくれ」。そして、ピーターのそばで横になったエリアスは、呼吸がとまり(2枚目の写真)、死ぬと同時に瞳の色が元の青緑色に戻る(3枚目の写真)。
  
  
  

「君は美しい」と、ピーターは顔をすりつけて嘆く。そして、エリアスの死体を草地に運んで行くと、周辺に生えている草を折り取っては体の上に乗せ、草で覆い尽くす(1枚目の写真)。それから時が流れ、エルスベートが5歳前後になった娘を連れて山に登ってくる。かつて、エリアスに連れて来られた池に行くが、そこにはもう岩はなかった(2枚目の写真)。母は娘に、「昔、ここにはきれいな平らな岩があったの。牛乳みたいに滑らかな。あなたの足のようだけど、もっとずっと大きかったの」。2人は、そう言うと池を去って行く。
  
  

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